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SNSと民主主義、多様な意見が可視化された時代の光と影

屋外で行われる集会や演説の場に設置されたマイク。背景には旗を掲げた人々が集まり、政治的な意思表明の場であることがうかがえる。
誰でも声を上げられる時代になった。その自由は、きれいな言葉だけでできているわけではない。

民主主義は、思っていたよりずっと汚い

民主主義という言葉には、どこか整った響きがある。
話し合いで決める、理性的で、穏やかで、成熟した人びとの制度。
少なくとも私は、長いことそんなイメージをどこかで持っていた。

けれど、現実の民主主義に日常的に触れるようになって、その印象は少しずつ、しかし確実に変わっていった。
民主主義はきれいではない。むしろ、かなりドロドロしている。
感情的で、矛盾だらけで、ときにおどろおどろしい。

それでも民主主義は続いているし、続けなければならない。
その理由を、最近よく考える。

SNSが開いた扉

SNSの登場は、政治参加のハードルを劇的に下げた。
これは疑いようのない事実だと思う。

かつて政治に意見を持つには、ある程度の場数や準備が必要だった。
地域活動、集会、政党、勉強会。
そうした中間地点を経て、意見は磨かれ、削られ、少し丸くなって社会に出ていった。

今は違う。
思ったことを、思った瞬間に、誰でも発信できる。
しかも、それが一気に広がることもある。

その結果、これまで表に出てこなかった意見や感情が、可視化された。
過激なもの、未整理なもの、怒りや恐怖だけでできているような言葉も含めて。

これは異常事態というより、制度としては自然な帰結なのだと思う。
民主主義はもともと、人間の雑多な感情を前提にした仕組みだからだ。

ぶっ飛んだ意見と、それを拾う政治

SNS上には、ときどき現実感を欠いた主張が流れてくる。
極端で、単純で、敵と味方をはっきり分けた言葉。

以前なら、内輪で消えていたかもしれないそうした意見が、今は集まり、束になり、票として数えられる。

それをかき集め、動員し、政治的な力に変える勢力も現れた。
これもまた、民主主義の反応としては自然だ。

票は票であり、動機の純度や成熟度までは問われない。
制度は、冷静に、無慈悲なほど公平に、それを集計する。

だからこれは、民主主義の失敗というより、民主主義がきちんと動いている証拠でもある。
ただし、それが安全かどうかは別の話だ。

正常進化であり、危うさでもある

この状況をどう捉えるか。
私は「正常進化」という言葉と「危うさ」という言葉の両方が当てはまると思っている。

参加の間口が広がること自体は、否定できない前進だ。
未熟な意見も含めて参加できることは、民主主義の前提でもある。

一方で、感情が熟成される前に、政治的な力へと変換されてしまうスピードには、やはり不安を覚える。
議論や反論、失敗や修正を経る時間が、あまりにも短い。

怒りや恐怖は、結束を生みやすい。
結束は、動員につながる。
動員は、票になる。

この流れがあまりにも効率化されると、民主主義は一気に荒れる。
これは歴史を見れば、何度も繰り返されてきたことでもある。

排除しないが、正当化もしない

だからといって、極端な意見を排除すべきだとは思わない。
言論の場から締め出せば、地下に潜るだけだ。

殲滅しろ、全滅させろ、といった言葉を口にする自由も、私は否定しない。
発言すること自体を禁じるのは、民主主義の自己否定になりかねない。

ただ、そうした考え方が支持を集める社会であってほしくないとは、はっきり思う。
言わせたままでいい。
しかし、選ばれなくなってほしい。

それは強制ではなく、評価の問題だ。
支持されず、共感されず、自然に力を失っていく。
それが一番民主主義的な結末だと思っている。

不寛容にどう向き合うか

多様性が大切だと言われる一方で、不寛容な思想もまた多様性の名のもとに現れる。
ここは簡単な話ではない。

相手を消そうとする思想まで無条件に受け入れる必要があるのか。
私はそうは思わない。

意見の違いは歓迎する。
しかし、共存を否定する姿勢には、はっきり線を引く必要がある。

それは排除ではなく、位置づけの問題だ。
民主主義のルールの内側にあるのか、外側なのか。
その区別を曖昧にすると、制度そのものが壊れてしまう。

民主主義はきれいな制度ではない

結局のところ、民主主義は汚い。
感情的で、理不尽で、矛盾を抱えた人間たちが、無理やり共存する仕組みだからだ。

多様性も同じだ。
心地よい違いだけを集めたら、それは多様性ではない。
不快で、理解できず、距離を取りたくなるものも含めて、多様性だ。

だから民主主義は、常に不安定で、危うい。
けれど、その不安定さを抱え込む覚悟こそが、民主主義を支えている。

きれいに整えようとする衝動こそが、いちばん危険なのかもしれない。

ドロドロした現実と付き合い続ける

民主主義は信仰ではない。
理想像を掲げて安心するためのものでもない。

ドロドロした現実と、矛盾だらけの人間と、未熟な意見と、危うい熱狂と、全部まとめて引き受ける制度だ。

だから疲れるし、嫌になることもある。
それでも手放せないのは、これ以上ましな仕組みを、私たちはまだ持っていないからだ。

汚れているからこそ、壊れにくい。
きれいでないからこそ、誰か一人の正義に支配されない。

そう思いながら、今日もこの制度と付き合っていくしかないのだと思っている。

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