ホーム表現の自由「エロ広告対策」で、どこまで表現を規制するのか

「エロ広告対策」で、どこまで表現を規制するのか

国民民主党は15日、議員立法「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律の一部を改正する法律案」(エロ広告規制法案)を参議院に提出した。

炎の中で本が燃え、ページや表紙が黒く焼け焦げている様子
曖昧な「有害」の基準は、過剰な自主規制と表現の萎縮を招きかねない。

青少年インターネット環境整備法改正案の問題点

インターネット上には、性的な内容を含む広告が突然表示されることがある。とりわけ、子どもが意図せず目にする状況について、何らかの対策が必要だという問題意識は理解できる。

しかし、今回示された「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律」の改正案には、見過ごせない問題がある。

「エロ広告対策」という、誰も反対しにくい看板を掲げながら、そもそも何を「エロ広告」とするのか定義されていない。さらに、実際の条文は性的な広告だけを対象とするものではなく、抽象的な基準によって、より広い表現を規制する余地を残している。

そもそも「エロ広告」とは何なのか

改正案は、その趣旨説明で「いわゆるエロ広告」への対応を前面に掲げている。

しかし、何をもって「エロ広告」とするのか、その定義は示されていない。

裸や性行為を直接描いた広告だけを指すのか。水着や下着姿も含むのか。身体の一部を強調した表現、恋愛漫画の広告、性的な言葉を連想させるコピーはどうなのか。芸術、医療、性教育に関する表現との境界も明らかではない。

「エロ」は法律用語ではなく、人によって受け止め方が大きく異なる俗称である。ある人が性的だと感じる表現を、別の人は恋愛表現、芸術表現、あるいは単なる身体表現と受け取ることもある。

つまり、この改正案は、対策の看板となっている言葉の範囲すら定めないまま、法的な規制の仕組みを先に作ろうとしている。

しかも、実際の条文では「エロ広告」という言葉を使わず、「青少年有害情報」や、それに「準ずる情報」という、さらに広く抽象的な概念に置き換えている。

「エロ広告を規制する」と説明しているのに、何がエロ広告なのかを定義せず、条文ではエロ広告よりはるかに広い概念を対象にする。これが、この改正案の最も基本的な問題である。

「誰が見ても明らかなエロ広告だけが対象だ」という説明では足りない。法律とは、誰が見ても明らかな事例ではなく、境界線上の表現をどう扱うかを決めるものだからである。

改正案は何をしようとしているのか

改正案は、一定規模以上のデジタルプラットフォームを国が指定し、広告に「青少年有害情報」が含まれる場合、次のような対応を求めるものだ。

  • 青少年の閲覧を防止する措置について、実施要領を作成・公表する
  • 国民からの通報を受け付ける体制を整備する
  • 閲覧防止措置や通報受付の状況を毎年公表する

ここまでは、対象や運用が明確であれば、プラットフォームの透明性を高める制度として理解できなくはない。

問題は、その先にある。

改正案は、正式な「青少年有害情報」だけでなく、

青少年有害情報に準ずる程度に青少年の健全な成長を著しく阻害するおそれが大きいと認められる情報

についても、同様の措置を講じる努力義務を課そうとしている。

この一文が、改正案の最も危うい部分である。

「青少年有害情報に準ずる情報」とは何なのか

現行法の「青少年有害情報」は、もともと非常に広い概念である。

法律上は、青少年の健全な成長を著しく阻害する情報を指し、犯罪や自殺を誘発する情報、性的刺激を与える情報、残虐な情報などが例示されている。

それにもかかわらず、今回の改正案は、その「青少年有害情報に準ずる程度」の情報という、もう一段曖昧な領域を設けようとしている。

しかし、「準ずる程度」とは何を意味するのだろうか。

正式な青少年有害情報には該当しないが、それと同じくらい有害な情報なのか。もし同じ程度に「健全な成長を著しく阻害する」のであれば、なぜ最初から青少年有害情報に該当しないのか。その境界は、条文を読んでも分からない。

法律によって表現に不利益を与えるのであれば、何が対象になるのかを、表現者や事業者が事前に予測できなければならない。

ところが、この規定では、最終的な線引きをプラットフォーム側に委ねることになる。

「努力義務だから問題ない」とは言えない

この規定は努力義務であり、直ちに広告を禁止したり、削除しなければ処罰したりするものではない。

だからといって、影響が小さいとは限らない。

プラットフォームは、実施要領を公表し、通報を受け付け、対応状況を毎年公表することになる。さらに、その対応を「第三者として評価する民間団体」を、国や地方公共団体が支援する仕組みまで設けられている。

このような制度の下では、事業者は次のように考えるだろう。

「対象かどうか分からない広告は、掲載しないほうが安全だ」
「批判や通報を受けるくらいなら、先に削除しておこう」

これは表現の萎縮効果である。

国が直接削除を命令しなくても、曖昧な基準、通報制度、対応状況の公表、外部団体による評価を組み合わせることで、民間事業者に広めの規制を選ばせることができる。

形式上は自主規制でも、その自主規制を法律が強く誘導するのであれば、表現の自由との関係を慎重に検討しなければならない。

通報の多さは「有害性」の証明ではない

国民からの通報を受け付ける仕組みにも注意が必要だ。

通報件数が多いからといって、その表現が本当に青少年へ深刻な害を与えるとは限らない。単に目立つ広告だった、嫌いな表現だった、SNSで批判が拡散した、特定の団体が集中的に通報したという場合もある。

性表現に限らず、ジェンダー、家族観、政治的主張、少数者の表現など、社会的に意見が分かれるテーマは組織的な通報の対象になりやすい。

ところが、改正案では、少なくとも次の点が明確になっていない。

  • 有害性を誰が、どのような基準で判断するのか
  • 広告主や表現者に説明や反論の機会があるのか
  • 掲載拒否や削除に対する異議申立てができるのか
  • 通報件数と、実際に問題が認められた件数を区別して公表するのか
  • 第三者評価を行う団体の中立性をどう確保するのか

通報制度を設けるなら、通報する側だけでなく、規制される側の手続的保障も必要である。

「第三者」の中立性は誰が保証するのか

改正案は、プラットフォームの閲覧防止措置を第三者として評価する民間団体を、国や地方公共団体の支援対象に加えている。

しかし、「第三者」と書くだけで中立性が生まれるわけではない。

特定の価値観に基づいて表現規制を強く求めてきた団体が評価主体となり、その団体を行政が支援する可能性もある。評価基準や利益相反、構成員、資金関係が不透明であれば、行政のお墨付きを得た民間団体が、事実上の表現規制基準を作ることになりかねない。

評価団体の選定基準、資金の透明性、利益相反の排除、異なる立場の専門家の参加などを、制度として担保する必要がある。

何を見せ、何を見せないかは、まず家庭教育の問題である

そもそも、子どもに何を見せ、何を見せないかは、第一義的には家庭教育の領域である。

子どもの年齢、発達段階、理解力、家庭の価値観はそれぞれ異なる。同じ表現でも、小学生と高校生では受け止め方が違い、保護者の考え方も一様ではない。

国家が「健全な成長」という抽象的な基準によって、すべての家庭に共通する正解を決めるべきではない。

もちろん、児童ポルノや犯罪を直接誘発する情報など、明確に違法なものへの対処は必要である。しかし、「不快に感じる」「子どもには早い」「教育上好ましくない」といった評価まで、直ちに法規制の根拠にしてはならない。

「自分の子どもには見せたくない」という判断と、「社会からその表現を排除すべきだ」という結論の間には、大きな隔たりがある。

その隔たりを飛び越えて、法規制へ進むべきではない。

必要なのは、見せない規制だけではなく、情報を読み解く力を育てること

子どもを守るために必要なのは、あらゆる好ましくない情報から子どもを遠ざけることだけではない。

情報を読み解き、広告の意図を理解し、危険を判断し、適切に距離を取る力を育てることが重要である。

インターネット上から好ましくない情報を完全になくすことはできない。広告を一つ規制しても、SNS、動画、ゲーム、検索結果など、子どもが情報に触れる経路はいくらでもある。

だからこそ、家庭教育とリテラシー教育が必要になる。

国や自治体が取り組むべきなのは、特定の価値観に基づいて「見せてよい表現」と「見せてはいけない表現」を一律に決めることではない。

  • 保護者が利用できるフィルタリング機能を充実させる
  • 年齢に応じて広告表示を選択できる仕組みを整える
  • 未成年のアカウントには一定の広告を表示しない
  • 子どもが不快な広告を自分で閉じたり報告したりできるようにする
  • 学校で広告や情報の意図を読み解く力を教える
  • 保護者に端末設定やペアレンタルコントロールの情報を提供する

こうした環境整備こそが行政の役割である。

子どもの保護を理由に社会全体から表現を排除するのではなく、それぞれの家庭が子どもの発達段階に応じて選択できるよう支援する。それが、家庭の教育に関する判断と表現の自由をともに尊重する方法ではないだろうか。

子ども向け対策と、大人を含む一律規制は違う

青少年保護を目的とするなら、本来優先されるべきなのは、子どもが利用する場面に限定した対策である。

大人も利用するプラットフォームから表現自体を広く排除することと、青少年に表示しない仕組みを整えることは同じではない。

表現の内容そのものを規制する前に、誰に、どの場面で、どのように表示されるのかを制御する方法を検討すべきである。

これは表現規制の基本でもある。

目的を達成できる複数の手段があるなら、表現の自由をより強く制限する手段ではなく、影響の少ない手段を選ばなければならない。

規制を必要とする根拠が十分に示されていない

改正案の概要には、「青少年が意図しない形で目に触れてしまう」という問題意識は示されている。

しかし、そこから直ちに、対象の曖昧な法的枠組みを導入してよいことにはならない。

必要なのは、少なくとも次の検証である。

  • どのような広告が、どの年代に、どの程度表示されているのか
  • 具体的にどのような被害が確認されているのか
  • その広告と青少年への重大な悪影響との関係が確認されているのか
  • 既存の広告審査やフィルタリングでは、なぜ対応できないのか
  • 表示方法の改善など、より制限的でない手段では足りないのか
  • 新制度によって過剰な掲載拒否や削除がどの程度発生するのか

示された資料からは、こうした立法事実や代替手段の比較が十分に示されているとは言い難い。

「不快に感じる人がいる」ことと、「青少年の健全な成長を著しく阻害する」ことは同じではない。

強い言葉によって規制を正当化するのであれば、それに見合う具体的な根拠が必要である。

将来の規制拡大にも注意が必要だ

改正案の附則は、広告をはじめとする「青少年の健全な成長を阻害するおそれのある情報」について、閲覧機会をできるだけ少なくする技術や、その他の方策を政府が検討するとしている。

ここでも、対象は「エロ広告」に限定されていない。

今回の制度が入口となり、将来的には広告以外の投稿、漫画、動画、ゲーム、政治的・社会的表現などへ対象が広がる可能性も否定できない。

規制は、一度導入されると対象が拡張されやすい。だからこそ、最初の段階で対象、基準、手続、効果検証、見直し期限を明確にしなければならない。

問題は目的ではなく、手段である

この改正案を批判することは、子どもに性的な広告を無制限に見せるべきだと主張することではない。

問題は目的ではなく、手段である。

青少年を守るという目的が正当であっても、曖昧な基準で幅広い表現を萎縮させてよい理由にはならない。

「エロ広告対策」という言葉だけで思考を止めず、実際の条文がどこまでの表現を対象とし、誰に判断させ、どのような不利益を生じさせるのかを見る必要がある。

少なくとも、この改正案については次の点を問い直すべきだ。

  • 「エロ広告」とは何かを明確に定義できるのか
  • なぜ条文では性的な広告以外にも対象を広げているのか
  • 「青少年有害情報に準ずる情報」という曖昧な規定は必要なのか
  • 年齢や利用場面に応じた表示制限では対応できないのか
  • 掲載拒否や削除に対する理由通知と異議申立制度はあるのか
  • 通報件数と実際に問題が認められた件数を区別するのか
  • 第三者評価団体の中立性と資金の透明性をどう確保するのか
  • 規制の必要性と効果を定期的に検証するのか
  • 表現の自由への影響を誰が検証するのか

子どもを守ることと、表現の自由を守ることは対立する目標ではない。

何を見せ、何を見せないかは、まずそれぞれの家庭が子どもの発達段階に応じて判断する。その判断を、フィルタリングやペアレンタルコントロールによって支援する。同時に、学校や家庭で情報を読み解く力を育てる。

それでも対応できない、具体的で重大な危険がある場合に限って、対象を明確に限定した措置を検討する。

それが本来の順序である。

「健全な成長」という抽象的な言葉によって、何が許される表現なのかを行政、巨大プラットフォーム、行政の支援を受けた民間団体の判断に委ねる制度には、慎重であるべきだ。

「子どもに見せたくない」という思いを、そのまま「社会から消すべきだ」という規制に転換してはならない。

関連リンク
【法案提出】議員立法「エロ広告規制法案」を提出|国民民主党
表現の自由に関連する記事

RELATED ARTICLES