スパイ防止法と表現の自由──必要性と危うさのはざまで

目次
- 1. スパイ防止法の「一定の必要性」
- 2. 表現の自由との兼ね合い
- 3. 冤罪の教訓──袴田事件と大川原化工機事件
- 4. 法律ができてもスパイは名乗り出ない
- 5. 現行法で対応できる範囲と、これからの議論
- 6. 「スパイ防止法ができても困るのはスパイだけ」という声に思うこと
- 結論:安全と自由、どちらも守るために
1. スパイ防止法の「一定の必要性」
近年、国際的な情報戦が激しさを増している。サイバー攻撃や経済安全保障の観点から見ても、国家機密の保護が重要な課題であることは間違いない。日本でも、外国勢力による技術情報の流出や防衛関連施設への不審な接触が報じられ、法整備を求める声が上がっている。
私も、スパイ防止法の制定には一定の必要性があると思う。国家の安全を守るための枠組みを整えることは当然のことだ。ただし、それは「正しく運用されるならば」という前提があってこそだ。問題は、スパイ防止法がどの範囲まで適用されるか、どのような行為を処罰の対象とするかが極めて曖昧である点にある。
「国家の安全」を口実に、政府にとって不都合な情報まで機密扱いにされるおそれがある。国家の秘密を守ることと、国民の知る権利を守ることは、しばしば衝突する。だからこそ、立法の際には透明性と歯止めが不可欠だと私は考える。
2. 表現の自由との兼ね合い
スパイ防止法が懸念される最大の理由は、表現の自由を脅かす可能性にある。政府や公務員の不正を取材し、報道する行為が「機密の漏洩」と見なされる危険がある。そうなれば、記者や研究者、市民団体の活動が萎縮するだろう。
「国家機密」の定義は、どこまでが正当な秘密で、どこからが国民の知るべき情報なのか、常に曖昧だ。秘密保護法が制定された際にも、報道機関が「取材の自由が侵される」と強く懸念した。スパイ防止法はそれ以上に、情報の受け手である市民の側まで影響を及ぼしかねない。
民主主義は、情報が公開され、意見が自由に表明されることで支えられている。国家が何を秘密とし、どこまで国民に知らせるのかが不明確なままでは、自由な議論は成り立たない。安全保障の名のもとに、社会が息苦しくなるような制度をつくってはならないと思う。
3. 冤罪の教訓──袴田事件と大川原化工機事件
スパイ防止法の議論で私が特に気になるのは、冤罪の可能性だ。日本の刑事司法には、これまでにも多くの誤判があった。国家が強い権限を持つとき、誤った判断が取り返しのつかない悲劇を生む。
1966年の袴田事件は、その象徴だ。静岡県で一家4人が殺害された事件で、元従業員の袴田巌さんが逮捕され、死刑判決を受けた。だが、後に証拠の捏造と自白の強要が明らかになり、再審で無罪が確定した。日本弁護士連合会によれば、取調べは深夜まで及び、袴田さんは疲労と恐怖の中で虚偽の自白をさせられたという。半世紀以上の時間を経てようやく冤罪が晴れたが、その人生は奪われてしまった。
もう一つの大川原化工機事件も忘れてはならない。2020年、噴霧乾燥機の輸出をめぐって、同社の社長らが外為法違反の容疑で逮捕された。しかし後に、それが規制対象外の製品だったことが判明し、起訴は取り消された。日本弁護士連合会はこの事件を「科学技術分野における冤罪」と位置づけている。捜査当局は「国家安全保障」を名目に企業を摘発したが、結果的に企業の信用は失われ、経済活動は大きな打撃を受けた。
もしスパイ防止法が制定され、捜査権限がさらに拡大すれば、同じような過ちが繰り返されるおそれがある。権力は常に誤る可能性をはらむ。冤罪とは、法律の誤用だけでなく、制度の設計そのものがもたらす構造的な悲劇でもある。
4. 法律ができてもスパイは名乗り出ない
スパイ防止法をつくっても、スパイが自ら行動をやめるわけではない。真のスパイは、どんな法律にも巧妙に適応し、より見えにくい形で活動を続けるだろう。むしろ、表立って摘発されるのは一般市民や記者、研究者のように、政府の目に映りやすい立場の人々かもしれない。
過去の治安立法がそうであったように、「安全のため」という名目でつくられた法律が、いつのまにか異論を封じる道具になることがある。権力は一度与えられると、なかなか手放さない。だからこそ、どんなに善意であっても、国家に過度な裁量を与える法律には慎重であるべきだ。
「安心のための法律」が、結果的に社会全体を不安にするようでは意味がない。安全と自由は対立するものではなく、両立を模索する努力が必要だと思う。
5. 現行法で対応できる範囲と、これからの議論
日本にはすでに、不正競争防止法、国家公務員法、刑法の機密漏洩罪など、情報保護に関する法律が存在する。防衛秘密の取り扱いについても、関係省庁には内部規定が整備されている。まずは現行法を適切に運用し、その実効性を高めることが先決ではないか。
新たな法律を作るのであれば、現行法では対応できない具体的な事例を明らかにし、その範囲を限定すべきだと思う。「他国があるから」「不安だから」という理由だけで法を作れば、後に取り返しのつかない副作用を生む。法律は社会の不安を癒やすものであって、不安そのものを利用するものであってはならない。
また、立法過程そのものの公開性も欠かせない。どの情報が対象となるのか、誰が判断するのか、どんな場合に処罰されるのか――これらを明確に示さなければ、市民は自らを守ることすらできない。
6. 「スパイ防止法ができても困るのはスパイだけ」という声に思うこと
「スパイ防止法ができても困るのはスパイだけだ」という声を聞くことがある。確かに、国家機密を盗むような行為に関わらなければ関係ないように思えるかもしれない。だが、現実はそれほど単純ではない。
法律は、条文の文言だけでなく、その運用によって人を裁く力を持つ。何をもって「スパイ行為」とするかを決めるのは、捜査当局や司法の判断だ。もしその判断が誤れば、スパイではない人までが「疑わしい」とされ、生活を壊されることになる。過去の冤罪事件が示すように、法の誤用は個人の人生を奪う。
さらに、法律の存在そのものが社会に萎縮をもたらす。報道機関は取材を控え、市民は「何を話してはいけないのか」と自己検閲を始める。そうした空気が広がれば、権力の監視機能が弱まり、民主主義の健全なバランスが崩れる。
「困るのはスパイだけ」という言葉は、法の力を過小評価している。問題は、自分がスパイかどうかではなく、「誰がスパイだと決めるのか」ということなのだ。
結論:安全と自由、どちらも守るために
私は、スパイ防止法の必要性を否定しない。だが、それが表現の自由や市民の知る権利を犠牲にしてまで進められるべきだとは思わない。国家の安全保障は大切だが、それを支えるのは、国民の信頼と自由な言論だ。もし自由が失われれば、安全を語る基盤そのものが揺らぐ。
冤罪の歴史が教えているのは、制度が誤れば人の人生が壊れるという事実だ。スパイ防止法の議論は、単なる安全保障の問題ではなく、社会がどこまで国家に権限を委ねるかという民主主義の根幹に関わる問題である。私たちは恐怖や不安ではなく、理性と経験に基づいて考えなければならない。
安全と自由。そのどちらかを選ぶのではなく、両方を守る方法を探すことが、今の私たちに課された課題だと思う。

