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デマと表現の自由──SNS時代の責任と民主主義を考える

自由は無制限に自由だが、その自由には責任が伴う──デマッター社会と政治の居場所化

偽情報
インターネットには多くの偽情報があふれている

東日本大震災では、Twitterが情報インフラとしての強さを見せた。
停電や通信途絶の中でも、人々は生の情報を共有し合い、助け合った。
いくつかのデマもなかったわけではないが、当時のTwitterは確かに社会の神経系として機能していた。

しかし、いまのX(旧Twitter)を見ていると、同じ役割を果たせるかは疑問だ。
悪貨が良貨を駆逐してしまった。
信頼よりも反応が優先され、共感よりも敵意が可視化される。
かつて人をつなげたプラットフォームが、いまや人を分断する装置になりつつある。

自由は無制限に自由である。しかし、その自由には責任が伴う。
この二つを同時に語れるかどうかが、成熟した社会の分かれ道だ。

デマもまた自由のうちにある

地方議員としてSNSを使っていると、時に驚くようなデマに出会う。
たとえば、選挙ポスターに蓄光塗料を使ったという事実をきっかけに、「選挙違反ではないか」といった投稿が広がった。
さらには「学校から塗料を盗んだのでは」といった荒唐無稽な話まで派生した。もちろん事実ではない。

それでも、「デマを禁止せよ」とは言えない。
国家や行政が「これは嘘だから発信してはいけない」と線を引くことはできないし、してはならない。
それを認めれば、政権の都合で都合の悪い意見をデマとして排除できてしまう。
だからこそ、デマもまた表現の自由のうちにある。
だが同時に、誤りを放置してよいわけではない。

デマはデマと指摘するべきだ。しかし、国家権力がデマを禁じることはダメだ。
この線引きこそ、自由を成熟させるための知恵だと思う。

責任なき自由は、他人の自由を奪う

自由には必ず責任が伴う。
それは制限という意味ではなく、自由を持続させるための条件だ。
他人の名誉や人権を傷つければ、法が介入し、社会が反応する。
司法がそこに関与するのは、自由を奪うためではなく、自由を守るためである。
責任を引き受ける覚悟がなければ、自由はやがて他人を踏みにじる暴力に変わる。

SNSでは、発信のコストは限りなく低いが、訂正や反論のコストは高い。
数秒の投稿が、誰かの人生や評判を容易に傷つける。
しかも多くの場合、それは悪意ではなく正義感から生まれる。
正しいことをしていると信じて、他人の自由を奪ってしまう。
現代のデマ拡散の怖さは、そこにある。

デマッターの心理構造──嘘と自己肯定

デマを流す人の多くは、意図的な悪人ではない。
中には、社会を良くしたい、不正を正したいという気持ちから発信している人もいる。
しかし、やがて事実よりも反応が目的化していく。
嘘であれ、デタラメであれ、社会に影響を与えることや反応があることで、
自分が存在していると感じられる。
それが一時的な自己肯定感につながるのだ。

さらには収益化だ。
デマや過激な言葉が拡散されるほど、広告収入が増える仕組みになっている。
その構造が、発信者の承認欲求と経済的動機を同時に刺激している。

SNSはこの心理を強化する仕組みを持っている。
いいねやリポストの数字が、まるで評価の証のように目に見える。
注目されることが正しいことだと錯覚してしまうのは、自然な流れかもしれない。
しかし、その結果、言葉が議論の道具ではなく、承認を得るための手段に変わってしまう。
これがデマッター社会の根っこにある構造だと思う。

政治が居場所事業になってしまうとき

こうした現象は、ネットの外にも広がっている。
政治そのものが、似たような構造を抱え始めているのだ。
政治は本来、意見の異なる人々が議論を通じて合意点を探す営みである。
だが、SNS上では「敵か味方か」という単純な図式が支配し、政治が居場所の象徴になってしまっている。
ある候補を支持することが意見ではなく、自分が仲間である証になる。
批判も称賛も、政策論ではなく感情の共有で終わる。

政治が居場所事業になれば、言葉は空洞化する。
政策よりも推しの物語が優先され、議論よりも同調が求められる。
その空間では、デマであっても共感できる物語であれば拍手が集まる。
つまり、デマは居場所を維持するための燃料になっているのだ。

そして政治家自身も、その構造に引きずられる。
発信のたびに「どの層が喜ぶか」「誰が叩くか」を意識し、言葉が自己検閲される。
積み重なれば、政治言語そのものが変わってしまう。
この現象を私は、「政治の居場所化」と呼んでいる。

嘘に抵抗することは、自由を守ること

デマや誤解には、できる限り事実で応じるべきだ。
それは個人の名誉を守るためだけではなく、社会全体の信頼を保つためでもある。
沈黙すれば、嘘が事実として定着してしまう。
だからこそ、抵抗することは戦うことではなく、対話を取り戻すことだと考えたい。

デマを禁止するのではなく、デマを恥ずかしいと感じる社会をつくる。
誠実さを称え、不誠実を軽蔑する。
そうした空気が広がれば、デマは自然に力を失う。
批判や風刺は自由だ。しかし、虚偽と印象操作には線を引く。
それは対立を煽るためではなく、自由な言論を維持するための最低限の姿勢である。

結論 自由と責任のあいだにあるもの

自由は無制限に自由だが、その自由には責任が伴う。
責任を果たすことでしか、自由は持続しない。
そして責任とは、罰ではなく、自分の言葉と向き合う覚悟のことだ。
嘘をつかない、誤った情報を拡散しない、他人を貶めない。
当たり前のことを、当たり前に続けるだけでいい。

自由とは、放っておけば壊れるものだ。
だからこそ、言葉を選び、嘘に抵抗し、誠実に語る努力を続ける必要がある。
それが、自由を守るということだ。
そしてその積み重ねが、やがてデマを流しても得はない、正直でいる方が尊いという空気を育てる。
その空気こそが、民主主義を支える本当の力だと思う。

関連リンク
インターネット上に流通する真偽の不確かな情報 – 総務省
ネット選挙における選挙運動用文書図画 投票日当日の取り扱いについて

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